透明水彩やっと終わった。油絵との関係はいかに?。
美術予備校での透明水彩ウィークが終わった。
油絵科なのになんで透明水彩なの?とずっと思っていたのだが、どうやら効果はあったようだ。
油絵をやり始めて3年たつ娘。
初めて描いた時には何をどう描いていいのかさっぱりわからず、かなり戸惑っている様子だった。
いまだにどうゆうものが描きたいのか、はっきりとはわからないようだ。
でも、
美術予備校での水彩画ウィークのおかげで、なんとなく描きたいものに近づいた感じがするという。
今までで描いてきたものよりも、ずっと。
「今までは、『自分が描きたいもの』から50mくらい離れていたような気がするの。それが、1mくらいに近づいた感じ。でも、中心は全然見えない。」
と娘は話す。
いやいや。
50m離れていたものが1mに近づいたのなら、すごい近いでしょ?と言うと、そうではないのだという。
「油絵を初めて描いてみた時はね。
何をどう描いていいのか、さっぱりわからなかった。
例えるのなら。
森の中に立っていてね。
目の前に大きなクレーターがあるの。
足元は底がみえるか、見えないかわからないような崖なの。
崖の端に私は立っているの。
とっても大きなクレーターでね。向こう側は全く見えないの。
2kmくらい離れたところに、ぼんやりと小さな球体が見えるの。
直径10mくらいかな?の球体。
浮いてるの。目の高さよりちょっと高いくらいのところに。
そこが目標地点だってわかるの。
足元をよく見るとね。少し低いところに、ところどころに足場になりそうなところがあるの。
後ろにある森から木を切り出して、そこに棒をさしたり土をかけたりして少し足場を作ってみたの。
うまくいったり、失敗したりしながら、足場を作って、進んでって繰り返して、なんとか球体の近くに行こうとしてみたの。
そこにいけば自分が描きたいものがあるような気がするの。
球体から50mくらい地点にきたところに、少ししっかりした足場を発見したのが受験期。
絵を描くのって、踊りを見せてるようなもの。
私はこんな風に踊れますよ。こっちを見てって、踊って見せてるの。
橋の上で踊るより、足場の上で踊る方が安定してるでしょ。
だから、しっかりした足場を探して、そこで踊っているの。
どう描いたらいいのか、迷いながらやっていて。でも、描くしかないから描いていて。
で、浪人生になった。
今回の透明水彩のおかげで、今までよりなんだかいい橋が作れて、もやっとした球体の近くにちょっとした足場が見つかって。
急に来れた感じ。1mくらい近くに。
安定した、小さな足場に来れた感じ。
ここでまた土台をもう少ししっかりさせて、足場を作り足すことができそう。
もやっとした球体は、最初に見た時より少し大きくなっていて。
直径20mくらいあるの。
真ん中は見えなくって、ど真ん中に私の本当に描きたいものがある。
それが、半径10mのもやっとしたものをまとっている感じ。
この足場から手を伸ばしても届かないけど、でも、あともう少しで触れそう。
あと一歩なの。
触れられるところはもやっとしているんだけどね。」
にやりと笑って娘は言う。
もやっとの中は、真ん中に向かうにつれて粘度が高い感じだという。
近くには来れたけれど、これから先はまだ全然わからない。
もやっとの中は手探りで進んでいくしかない。
本当に描きたい絵は、その中心にある。
絵を描く人は、自分の本当に描きたい絵を探し続けているのだという。
画狂老人と自ら名乗った葛飾北斎も、死の床にあって『あと5年あれば本当の絵師になれただろうか』とつぶやいたというし、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザも、ずっと手元に置いて時々描き足していていた未完成作品だという。
むろん巨匠と同列には扱えないが、絵を描く人たちは本当に描きたい『完璧な一枚』を探す旅を続けているだろうか。
描いても描いても届かない、自分の本当に描きたい絵。
まだまだ旅は始まったばかりだ。