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お怒りでお帰り

先回の実技共通絵画、男女の人体モデルの講評。
かなり『お怒り』モードで帰宅した娘。
描きあがった時には結構ご機嫌だったのに、その落差に戸惑いながらも私は話を聞いてみることにした。

「『(作品の)下半分はすごくいいけど、上半分は描き足りないよね。一番の見せ場(今回は真ん中より少し下あたり)に向かって、緊張感が残るような紙の色の残し方をすれば良かったんじゃないか。それに合わせて周りの色を入れた方がよかったのじゃないか。悪い意味でパステルらしくなっちゃった。』とか言われたの。」と娘。

下半分は『いい』らしいが、上半分(特に左上?)は課題が残ると言われたようだ。話を聞いても、特に何かショックなことを言われているとも思えない。何がそんなに怒れているのかもよくわからないので、もう少し探ってみる。

「下半分は『いい』としか言われなかった。いいなら、褒めて欲しい。上半分は『こうしたら良かった』とか言うんだから、下半分はどこがどう良かったのか言ってくれないと、どこが『いい』のかわからない。」と怒る。
「人のことを否定ばかりするし。(←これはどうやらクラスの他の人を含めた全体講評についてらしい。)『このクラスは20人くらいいるけど、見れる絵は2人くらいしかいない』とかいうし、やだ。共通絵画嫌い。」

なんだかずいぶん怒っている。
今回は娘がパステルで描いた初めての作品だ。
もともと持っているのはレンブラントのソフトパステル。
買ってすぐ一度描いていてみて、それ以来描いていなかったらしい。
『まぁまぁ面白いけど、高くてコスパ悪いって思ったの。この金額でこの面白さならやらなくっていいなって思った』そうだ。
買った当初、金額聞いて驚いた記憶がある(定価は4400円+消費税。ハーフサイズで30本入り)。確かに使ったらまた買い足していかないとならないし、コスパは良い方が使いやすい。(画材は自分のお小遣いの範囲内で購入している。)
今回購入したパステル(ヌーベルカレパステル)は、1本100円以下とコスパは良い。だから、気兼ねなく使えたようだ。ムサビの世界堂では1本売りしているので、気軽に好みの色を買い足せるという利点もある。

初めてのパステル作品で、ある程度描けたのだから、いいじゃないかと思いつつ娘の様子を見るが、なぜ怒っているのかはよくわからない。で、続けて話を聞いてみる。こういう時親は、ただ話を聞いてあげることしかできない。
今回のクラスは、油絵科だけでなく色々な科の人が来ているので、皆描いている絵が違って面白かったようだ。じゃぁ、ステキだなって思える絵を描いている人がいたかと聞くと、それもいないと言う。ただ、自分の好みでない絵があるのだということはわかったそうだ。
娘の描く絵はパッと見とても地味だ。
現役生の時には遠くから見ると青一色?みたいな作品を描いていた。浪人生の夏ぐらいから、ベージュみたいなグレーみたいな色になってきたから色々な色で構成されているのがわかるようにはなったが、やはり地味めなのはかわらない。
だから、自分の作品とは真逆の明るい色がたくさん入っている作品とか、ピンクとか水色とか多用している作品は好みじゃないそうだ。
『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』じゃないが、共通絵画の講評が嫌だったせいで、なんだか周りの色々な事が嫌になっているようだ。

話を聞いても、娘が何でそんなに気分を害しているのかわからない。

助けを呼ぶことにした。
うちの殿さまだ。

殿さまは『古典主義のロマン主義的解釈こそが、グローバリゼーションを生き抜く唯一の方法ではないかと考えている』学者。私には何を言っているのかよくわからない時でも、娘には理解できることがあるらしい。娘が美術の道に進むことになったきっかけを作ったのも殿さまだ。
娘の作品を見てもらいながら、どんな講評だったかを話す。

殿さまには、何故娘が怒っているのか共感できたようだ。
「この作品は、人体の描き方はルネッサンス以降の絵みたいなものなんだけど、その当時と違って、何かのアレゴリーを表しているのではなくてただ人体をそのまま描いているんだよね。
伝統的なヨーロッパの絵って、裸の男女が描かれていても、それはそれを描きたいのではなく何かを表現するために描いているの。(殿さまは、帰国子女だったこともあり、ヨーロッパやその周辺のことにとても詳しい。)教会とかに飾ってある絵ってそういうものでしょ。
でも、それを日本人がただマネして描いても意味がない。
日本人である娘が描くんだから『(今までにたくさん描かれている)裸の男女』を自分ならどう描くか、ということを考えて娘は描いたに違いない。
そう考えていくと、講評で言われたような『余白』(油絵で余白とかはないんだけど)みたいなものが出てきちゃうと、それには何かの意味合いが出てきてしまって、娘がやろうとしていたことと違ってしまう。
娘の描いた作品では、裸の男女がすごく接近しているんだけれど(男性が寝転がって、そのすぐ隣に女性が膝を崩して座っている。パッと見まるで『絡んで』いるように見える構図)、全くいやらしくない。それはこの絵の特徴のひとつ。(裸の男女がよく描かれていた)その時代のヨーロッパの絵の特徴と同じ。

もし、講評で言われたような緊張感が走っていると考えると、パット見て解るし格好いい。
でも、何か訴えたいことがあるように思える。
まるでポスターみたいになってしまう。たとえば、コレみたいな」
と言って、自分の部屋に飾ってあるDSB(デンマーク鉄道)のポスターを示す。

DSB-デンマーク鉄道のポスター

「ほら、コレ。
一番上に描かれているDSBという文字を隠してみるとよくわかるんだけど、この文字が書いてあることでこの画の雰囲気は全く変わってしまう。コレはポスターとしてよくできているけど、何が言いたいのかよくわかってかつ格好いい。

でも、娘が描きたいものは違う。例えばハンマースホイの絵みたいに。ポスターとこの絵は同じくらいの時期だけど、全然違う。
この空間を描きたい。」と部屋の隅に貼ってあった絵を指す。

ハンマースホイ

娘の描いた作品は、(ポスターのように)何かのメッセージを伝えているわけではない。
でも、裸の男女をただ描いているだけではなく、製作者の意図が明らかにある。
それなのに、その先生は作者の意図を理解していない。その講評は的外れだ。
これは、ポスターではなく、絵なんだ。」

私には絵とポスターの違いははっきりとは分からないが、父親にこう言われて、だいぶ落ち着いたようだ。
娘は、自分の意図を先生に汲んでもらえなかったことに怒っていたようだ。
続けて殿さまから作者の意図をもっと明確にするためにどのように表現したら良かったかという話が続いたのだが、私にはさっぱりわからなかった。
伝えたいメッセージがある、というのと表現したいことがある、というのは全然違う事なんだろうなぁとぼんやり思ったくらいだ。


「油画の先生なら、お父さんが言ってくれたみたいなことを、講評してくれたと思う。」と娘。
父親に理解してもらって、それを言葉に直して表現してもらったことでやっと落ち着いたようだ。
表現したいことをうまく伝えられるような、技量が十分につくといいなと、切に願う。



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