石膏像デッサンの講評:白と黒を利かすことと唇の情報量
この前受けたガッタメラータの具体的な講評で言われたのは、デッサンの白と黒をもっと利かすことと、情報量の調整についてだったようだ。
油絵は目の前にあるモチーフを含めた空気感が正解。
その正解に近づくために、美学生達は絵を描いていく。
「ガッタメラータのデッサンね。『一番明るいところでさえ色が濁ってるから、もう少し白と黒を効果的に使うといいと思うよ。それが、このデッサンには合うと思うよ。』って言われたの。
白と黒を効果的に使う方法って、合うデッサンと合わないデッサンとあるのね。
私のデッサンは調子で描くデッサンなので、それが効果的だって言われたの。
ハイライトのぎゅっとくる白や、生の黒を置くとそれが効くデッサンなんだって、言われてみると確かにそうかもって思うの。
その方が臨場感が出るって言われたたんだ」
聞いていると、確かに今までよりもずっと具体的なことを言われているかも。
基本的なことができていることを前提に、個別にアドバイスをもらえるのも美術予備校に行っている醍醐味だなぁと思う。これなら学費を出している甲斐があると密かにほくそ笑む。
「あと、情報量が高いところをしっかり描きこむようにと言われたの。」
ふんふんと聞いていると、耳慣れない言葉が飛び込んできた。
情報量が高いって何?と聞いてみる。
「うーーーーん…。たとえばね。上唇を例にとると、上唇の真ん中の部分から口の端までの長さは、右も左も同じ長さでしょ。つまり同じ情報量だっていうことになるの。
真正面を向いていれば、同じ長さで同じ重要度なんだけど、斜めを向くと、左の唇と右の唇の長さが違うように見えるでしょ。情報量は同じなんだけど、短い方が密度が高くなっているので、重要度が上がるの。
密度が高いから、重要になっちゃうの。
だから、そこは大事にしないといけないので、丁寧に描かないといけないの。
入り組んだ複雑な形をしているところは、情報量が多くなるから、そういうところを描きこんで見どころみたいなものをつくるといいよ。と言われたの。
コントラストが強いところ、たとえば鼻のすじと鼻の下の部分とか。
接している部分は光と影の差が強くなるので、そこをもっと描きこむといい。とも言われたんだ。」
たしかに基本的なことができていなければ、どうやって見どころをつくればいいかなんて話はしてもらえないなぁ。と聞きながら思った。
白と黒をどう効果的に使うか、とか情報量の多いところに見どころをつくるといいとか、絵に変なところがあったらそんなところまで見てもらえないもんなぁ。
形が取れているとか、調子が綺麗に出ているとか、パースが取れているからといって『良い絵』になるわけではない。
そういう基本的なところが出来ていて初めて、どう描けばもっと良くなるか、講評をしてもらえるのだ。
「前回より良くなったっていう言葉は、ある意味なぐさめだと思うの。
前回がひどかったっていう意味なんだと思うの。
だから、美術の世界って厳しいの。
『この前よりいいじゃん』って言われたって、この前描いたのは基本ができていなかったよって意味の時もある。
褒められてるってことは、笑顔で真綿で首を絞められているのと同じ。
だから、辛くて嫌になってやめちゃう人がいるんだと思う。
藝大の油画に入って、半年もたたないうちに行方不明になっちゃう人とかいるんだよ。
完璧に近づこうとしても完璧にはならないし。
一度できたことが次にできてないと『この間はできてたよね~』って言われちゃうし。」
三月まで通っていた現役生向けの美術予備校の何年か前の先輩が、現役で東京藝術大学油画に合格したにも関わらず、1年生の夏休みあけには失踪してしまい今どこにいるのかわからずじまいだという。
藝大油画には毎年何人か行方不明になってしまう人が出るらしい。
私には理由がさっぱりわからないのだが、娘は思い当たるようだ。
具体的な講評をしてもらえるレベルの絵を描けて嬉しくはあるが、その先を考えるとブルーになってしまう時もあるようだ。
うまく描けたと思っても、その先はまだまだ見えない道がずっと続いている。
完璧に近づこうとしても完璧になれない。なんて詩的なセリフだが、それと向き合う精神力がなければ絵は描けないということなのか。
藝術でメシを食うのはキビシイ。
どんな職業につくのであれ、美術の道を選ぶのなら、自分の作品と向き合うことはずっと続いていく。
次回はどうなるだろう?理屈と感覚の調整が上手くいくことを望む。