今までに一度だけ、2000万円以上するスタインウェイを弾いたことがある。
私の中学からの唯一の友人は音楽一家で育ち、音高→音大→ピアノの先生になったのだが、大学生の時にその友人にピアノを習っていた。
小学生の時ピアノを習っていたので、家にはアップライトピアノがあった。
当時の価格で50万円くらい。
今では電子ピアノなどもあり、価格はかなり安くなっているが、当時は一番安くてもそのくらいの値段がしたのだ。
友人の家にはグランドピアノが2台とアップライトピアノが1台あった。
友人のお母さんも音大出て、家でピアノ教室をやっていた。
成長した娘にお教室を譲る予定だったためだろう、彼女は大学生のうちから生徒を何人か持ち始めていた。
ピアノ経験のある私に、ある日誘いがかかった。
「お家にピアノがあるのに、使わないのもったいないよ。お友達価格でいいからやってみない?」と言われ習い始めた。
週に一回ピアノのお教室に通ったが、大学生はバイトやサークル、デートに忙しい。
友人の家で弾く以外、ほとんど弾く時間がないので思った通り上達しない。
友人に勧められたから再度始めたようなものなのだから、練習しないのも当然と言えば当然だ。
やっぱり続けられないなと思い友人に相談すると、「せめて発表会だけは出て欲しい」と言われ、ショパンを弾くことになった。
仕方なくそれなりに練習して、まぁ許される範囲かな。というところで発表会当日。
夜の発表会本番の前に、リハーサルで皆1回ずつホールで弾くことになった。
「ホールにあるのはコンサート用のスタインウェイなんだよ。」
と友人には聞いていた。
友人宅にもスタインウェイが1台あり、同じメーカーなんだなぁ。くらいにしか思わなかった。
弾いてみて驚いた。
鍵盤が異常に軽いのだ。加えて響きがスゴイ。
400人近く入るホールなのだから、もちろん音響もよいのだろう。
いつもの調子で弾いてしまうと、音が全部フォルテ以上になってしまう。
フォルテのつもりで出した音は、思わず耳を塞ぎたくなるほど、むちゃくちゃ大きくなってしまうのだ。
ヘタクソなのに、余計酷いデキになってしまう。
まごまごしているうちに、リハーサルは終わってしまった。
次に弾けるのは本番の一回。
待ち時間の間に膝の上で指運びを何度も練習する。
暗譜はできていたのだが、装飾音が多い曲なのに、それが強くなりすぎると余計聞きづらい。
直前まで練習していたが、結果はひどかった。
暗譜はできていても、曲としての完成度が低すぎたのだ。
発表会後の2週間、私は毎日自宅のピアノで練習した。
ピアニッシモとフォルテ、いくつも入る装飾音符。
これ以上に今の自分では弾けない、という程度までしあげた。
翌々週のレッスン日に友人宅で弾いたところ、
「発表会の時に、これが弾ければ良かったのにね。」
と呆れたように言われた。
ごめんね。
スタインウェイがあんなにスゴイものだとは知らなかったんだ。
やる気のない人に、その衝動を湧き起こさせるものだとはわからなかった。
そこのコンサートホールでピアノのお教室の発表会を行うのは珍しいようで、友人はとても自慢げだった。
そのピアノを弾くために、そこで発表会をするのだと言っていた。
置いてあったのはスタインウェイの最高峰、D-274。
調べてみると2200万くらいするらしい。
うちに置いてあったアップライトピアノと比べると44倍の値段だ。
値段の高いものにはそれなりの理由がある。
『やる気スイッチ』を入れることさえできるのだ。
良い道具を与えられれば、良い表現をしようと努力する。
努力すれば、より良い表現ができるようになり、良い道具がより良い音を出す。
おそらく美術も同じなのだ。
描きやすい筆は良い表現をしようとする励みになる。
美しい色は、それを生かす魅力的な表現をしようと務めさせるはずだ。
道具をけちってはいけないのだ。
「新しい絵の具が欲しいの。」
娘に道具の無心をされるたび、私は心の中で念じる。
良い道具は良い表現につながる。家計がひっ迫しても道具代をけちってはいけない…。
念仏のように唱えながら、諭吉さんが娘へと渡されていく。
値段の高いものには、それなりの効果がある。という文言は、単なる自己暗示ではないことを望みながら。