講評=公開処刑の恐怖

がちゃり。
鍵を開ける音がする。
陽はとっくにくれて夕飯も終わって、いつも見ているニュースショーも終わりに近づくころ。
時間は10時40分。

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やっと帰ってきたと思いながら玄関まで迎えにいく。

母「お帰り。」
娘「うん。」

うちの一人娘は受験生。
大学受験である。
今日は9時半まで画塾にいたのだ。

画塾にはドアツウドアで小一時間かけて通っている。
年頃の娘が夜遅くに帰ってくるのも今の時期は仕方がない。
ちょっと離れたところまで通っているのだ。
彼女が通っているのは絵の進学塾、つまり画塾である。

母「お腹はすいている?」
娘「うーん。」

母「外は寒い?」
娘「うーん。」

なんとも反応が鈍い。
あぁ。今日は講評のあった日だったなぁと思い当たる。

『講評』とは、描き終えた絵を先生に評価してもらうこと。
美術って英語や数学などと違って絶対的な正解とかないのだけれど、たとえば構図とか、形とか、重量感とか、その他色々な概念を元に先生たちは作品(絵)を批評していく。

その時には相手がどんな性別だとか、絵を描いてどの位かとかいっさい関係ない。
ただ純粋にその作品だけを対象とするのだ。

やり方は簡単。
まず描いた絵をすべて皆に見えるように並びかえ、皆の前で作品をひとつ選び、どこがどう良いか。何が足りないのか。ひとつひとつ評価していくのだ。
その作品のどこが良かったのか、何が足りなかったのかクラスの皆にわかってしまう。
それを時間の許す限りひとつひとつの絵に対して行っていく。
繰り返すが『皆の前で』である。

まるでまな板の上のコイ。
ただ調理されるのをじっと待つしかない状態である。

アライにされるのか、鯉コクにされるのか
はたまた中華風に調理されるのかとびくつきながら待っているしかない生徒たち。

皮をひんむかれたり
頭を落とされたり
高温で揚げられたりする鯉のように
先生の講評により調理されていく生徒たち。

繰り返すが『皆の前で』である。

英語や数学だったら、自分のテストの点数を皆の前で見せられ、
「ここは綴りの間違いね。あぁ、ここは中学三年の文法でやったよねー」
などとひとつひとつ細かく指摘されるようなものである。

公開処刑である。

残念ながらこれに耐えうるメンタルがないと、美大には入れないのだ。

保護者にとっては子供のたいしたことない作品をしっかり見ていただける点でとてもありがたい作業である。

本人にとっては恥ずかしく、辛いことなのだろう。

講評の時間ぎりぎりまで手を入れて絵を仕上げようとしているので、空腹も忘れてしまうらしい。
厳しい評価を得た時には、食欲もなくなってしまうようである。

だが、講評を受けられるならまだいいといえる。
恐ろしいことに講評されない場合もあるのだ。
なぜかって?
そのレベルまで達していない、ということらしい。

通うクラスによって一概には言えないが、
正解のないはずの美術は、あるレベルを超えないと点数さえつけてもらえないこともある。
他の人の作品が批評されているのに、自分の作品が素通りされたりもするのだ。
先生「(自分の作品を見ながら)これは、、、うん。。。。。(次の作品に向かって)こっちのは~」
10時間かけて描いた絵であっても何の批評ももらえないこともある。

まな板にさえのせられず、ごみ箱へとぽい。である。
『講評』、これが絵を描く者には必ずやってくる公開処刑の時間である。

繰り返して言うが、これに耐えうるメンタルがないと美術の世界ではやっていけないのだ。

で、先ほどの娘。

しばらく放っておくとぽつり、ぽつりと話し出す。

どうやらひどく批評されたわけではないらしい。
どうしたら指摘された部分を良くできるのか考えているらしい。

ふむふむ。
そっかぁ。
なるほどねぇ。
ま。甘いミルクティーでも飲んで、風呂に入って寝ろ。
一晩寝ればよいアイデアが湧くかもよ。

母からの無責任な一言で撃沈する娘であった。

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